朝露をひとしずく 〜カボチャ大王、寝てる間に…。Y

*最初のお話→最初のお話******
                 以降、続編 続編 その一続編 その二 (セナBD)続編 その三 (ラバBD)続編 その四 ( 07 ハロウィン)***


 城下を取り巻く城塞を出れば、すぐにも眼前に広がるのが広大な小麦畑で。夏場は青々とした海原だったそれが、豊かな実りをたたえた金色の海へと様変わりしだす。夏の名残りを脱ぎ去って、寒色に凍える冬へと至るまでの寸暇を埋めるのは、秋の山野を飾る木々の色づきが綾なす錦景。豊饒を満たした大地への祝福、天からも金色に透ける陽が降りそそぎ、世界はやさしい色合いに染まってく。なのに、

 「……。」

 夕刻から宵にかけ、そこいらの足元から聞こえていた秋虫の奏でがいつの間にか聞こえなくなり。月のおもてが澄んだ仄寒さに洗われてか つんと冴えだして。それと時を合わせるかのように、朝の空気はどんどんと、素っ気なさを増してゆき。このくらいが心地いいという限度を、そろそろ越えるだろう端境の晩秋となったと。小さな傷の増した手で開いた窓から、そろり そよぎ込んだ風の冷たさで実感する。ゆらさぬように、こぼさぬようにと運んで来たのは、内宮の庭園で今朝一番に咲いていた深紅の秋バラ。びろうどのように瑞々しくもやわらかい花びらには、朝露が幾つも乗っており。ただでさえ不安定なそれが、だが1つたりとも落とさぬようにと運んで来たのは。この部屋の主の傍に常に仕える小さな近従の少年だ。

 「殿下…。」

 既に仄明るい彩度を保っていた部屋を、窓からさし入る朝の陽が直接の明るさで満たしてゆく。さして仰々しいそれではないながら、それでも極寒期の防寒のため、天幕を降ろす天蓋はついている広々とした寝台には、無心に眠り続ける御主が横になっており。天井を真っ直ぐに見上げている寝姿は、常と少しも変わらぬそれだが、それがそのまま3日もの長きにわたって続いているという事実が、小さな少年の胸を傷ませた。特に苦痛に耐えている様子もなく、生気を失ってもおらず。声をかければ今にも自然に、寝起きのいい彼らしく、その眸をすぐにも開けてくださるかのような穏やかなお顔なのだけれど。それでも…先一昨日の朝からのずっと、じりとも動かずのこのまんま。そして、それからの3日というもの、城内はもとより、この小さな少年の胸のうちへも、尋常でない嵐が吹き荒れ続けているのである。



    ◇◇◇



 その異変はあまりにも静かな代物だったので、すぐにも気がつけという方が難しいそれだった。

 『…殿下?』

 朝ともなれば、どうかすると誰よりも早くに起きていることさえあるのが、この、ホワイトナイツ皇国シン王朝シュージ5世国王陛下の第2王子にして、現在の王位正当継承者、清十郎殿下であり。幼いころより始めた武道の習練の続き、朝は空気が澄んでいる間に起き出しての体をほぐす鍛練を始めるのが日課でおわす。とはいえ、あまりに早々起き出すと、身の回りのお世話を受け持つセナの手を却って煩わせるのだと気がついたらしく。まだちょっぴり及び腰の、小さな小さな侍従の少年が、怖ず怖ずとした様子で“起きてくださいまし”との声をかけて来るまでは、寝室にて待っててくださるようになって。

  ところがその朝だけは、それともずんと 様子が違った。

 お声をかけてもお名前を呼んでも、畏れ多くもその肩をゆるゆると揺すってみても、全くお起きにならなくて。こんな間で深く眠っておいでなのは初めてのこと。侍従の少年もさすがに“あれれ?”と違和感を覚えはしたものの、前日に近隣の里を視察にと回られたので、その疲れがお出になったものかしらと。そのくらいだろと納得し、さして大事には感じなかった。だって、殿下はそれは壮健な方でおいでだし、寝顔も穏やかで辛そうなところは欠片ほどもなかったから。早起きな方だからと早めに起こしに来るだけのこと、もう少しくらいならこのまま寝ていてくださっても構いはしなかろと、そおっとしておいて差し上げたが…それが朝一番の会議の時間になってもお起きにならぬ。恐れながらと隋臣長の高見が声をかけ、様子を、これはもしやしてただ眠っておいでなだけじゃあないのではなかろうかと、

 『セナ様へは心許しておいでですから、
  安んじておいでの結果、目を覚まされぬということがあっても当然のこと。
  ですが、それ以外の人間がこうまで近くに寄っておれば、
  警戒というよりも嗜みとして、意識を冴えさせる御方である筈です。』

 あなたが異変だと気づけなかったのも致し方がないと、いいですね?と、丁寧に説いて下さった高見さんが、まずはと呼び招いた典医はだが、体に異常はないと言い。具体的な話、熱も出ていなければ各種の病いの兆候もなく、筋肉や何やの反応から見て途轍もない疲労に苛まれての萎えておいでな訳じゃあないし、何かしら深い催眠効果がありそうなものを摂取なされた痕跡もないと。ならばならばと、今度は神官の方々を呼び、不穏な気配はないかと問うたところが、

 『微妙ながら影が差しておいでです。』

 神官長が厳かに告げた。だが、それが何の気配かは判らない。それが働いてこうなったものかそれとも、何かへの抗性としての盾が立ち上がっていてのそれで、殿下自身の意識まで塞がれてしまったものなのか。邪か聖かさえ判然とはしない。

 『…それは。』

 そんな宣託へ、関係者一同がハッとしたのは、思い当たるものがなくもなかったからで。数年前の、丁度今頃のこの時期に。殿下の兄上にして第一王子、本来の皇太子殿下でおわした御方が、根拠のない疑心に心歪ませたその挙句、こちらの弟君を亡き者にしようと画策されて。周囲にいたのが善良な人々ばかりだったものだから、諌めることしか出来ぬうち、謁見の使者を装って侵入し、ご自身が凶刃振るうほどもの騒ぎまで起こってしまったものの。不思議な存在が現れての場を収め、兄殿下はそのまま…乱心したままどこぞへかへと攫われたのが今のところの顛末で。

 『まさか…。』
 『だが、時期も時期だ。』

 秋も深まっての万聖節が程近い。十一月の最初の日。黄泉の扉が開けられて、本来は聖者のみが里帰り出来る日が訪れる。ところがその前日は、悪い亡者もどさくさ紛れに人世界へと飛び出すので、それを追い返すため、一晩中起きていて里を村を守るのが、世に言う“ハロウィン”のお祭りで。いくら何でも、どれほど信心深い者であれ、そういったことは教えの上での話だと、実際に起きる現象を差してはいないというくらいは判っているが。だがだが、この国この王宮に限っては。あんな不思議が現に起きただけに、それを覚えている人々にしてみれば…迷信だの創作だのと割り切るのが難しく。そして、

 『殿下…。』

 小さな侍従の少年が、最も心傷めて打ち沈んでしまったのも無理はなく。






    ◇◇◇



 高見さんは気に病まなくていいと仰有ったけれど。それでも…最も間近にいたのは自分だ。なのに何も気づけなかったのが歯痒くてしょうがない。周囲の方々は、最も間近にいた御方の異変なのだからこそ その心痛もひとしおなのだろうと、そうと解釈しておいでなようだったが。そして、だからこそ いたわっても下さるのだが。セナにしてみれば、悲しいのと同じほど、自分の迂闊さが口惜しくてしようがない。お休みになられたの、見届けたのも自分だ。夜の間はすぐお隣りの続きの間にいたし、夜中に何かあったというのなら、まずは自分が気づいてなければならなかったのにと。それを思うともうもう、悲しいのと悔しいのと情けないのとが入り混じり、居ても立ってもいられなくなる。

 “殿下…。”

 日頃とどこといって変わりのない、無心に眠っていらっしゃるだけに見えるお顔なのにね。精悍で大人びた面差しは、彫が深くてちょっぴり鋭角な印象の目許や、意志の堅さを映す口許の、いかにも実直そうな、ちょっぴり頑迷そうな気性をそのままに映して凛と冴え。
“………。”
 ああでも自分は、あんまり見たことがなかったなと、こんな時に想いが至る。いつだって真っ直ぐにこちらを見ていて下さった。心許なくてそちらを伺えば、いつだってその清かな視線に受け止めていただいた。武道一筋でおられた反動、あんまり社交的ではなくて。気の利いた物言いも苦手でおわしたけれど、でも思いやりはあり余るほどお持ちで。小さなセナが多くの人々やら格式ばった城の生活に早く馴染めるようにと、いつもいつも一番心砕いていて下さった。ずっとその傍らにおいでだった高見さんが“あんなことに気を回せる方だとは思わなかった”と仰せだったほど、もしかしたならそれらはセナのためにと、殊更に気を使って動員されていた集中だったのかもと、

 「……っ。」

 のんきに回想している場合じゃあない。陽あたりのいい、奥のほうにあった蕾だったので、手を伸ばすのにちょっぴり棘で引っ掻いてしまいつつ、それでも何とか摘んで来たのはそれは見事なバラで。

 『…どうしたよ、辛気臭い顔しやがって。』

 五里霧中だったセナへ、そんなお声をかけた人。そう、それは昨日の昼下がり。

 『殿下が無事に目を覚まされたおり、
  なのに、あなたが倒れそうに憔悴していては何にもなりません。』

 ずっと傍に居るといっても限界もあろうと、2日目ともなると“少し休まれた方がいい”と皆様から言われたセナで。この小さな侍従の少年が、この王宮を危難から助けて下さった ありがたい存在だってことはみんな知っているし、ついでに…殿下からの日頃の溺愛ぶりだってようよう承知。だからこそ、

  ―― いいですね? 殿下のお心を一番和ませて下さる存在なのですよ?
       だからこそその御身、いたわってもらわねば困ります、と。

 少々キツイ物言いをわざとに選んで、女官長のご婦人が小さなセナをお部屋まで押し返した。自分までもが気遣われたこと、ありがたいと思うと同時。でもでもやっぱり、そんなにも頼りにされぬかと。かくり、肩を落とした彼が、ふらふらとその足を運んだのは、中庭にあった小さな聖堂だった。こんな騒動が起きたとはいえ、民衆へ知れては要らない杞憂を招くからと、王宮の居回りは文字通りに静かなまんまであり。小さいとはいえ荘厳な空気をたたえた聖堂もまた、無人の閑散とした空気とはまた別な、普段と変わらぬ静謐に満ちており。力のない足取りで祭壇前まで進み出たセナは、清楚な作りの、されど重々しい仕様の十字架を見上げると、はあと小さく溜息をついた。その途端に、

  ―― ほろり、と。

 すべらかな頬をすべり落ちたものがある。延々と混乱していただけだったものが、その間中、引きつけるようになってのきつく締めつけられていたものが。今ふっと緩んでしまったものだろか。大きな瞳に次々と浮かぶ涙が、ただただ頬へとこぼれ落ちており。胸の奥が絞り上げられるようにつきつき痛んで、それもまた止まらない。

 “…殿下。”

 気がつくといつもこちらを見ていて下さってた。迷子の子犬みたいなセナが心配だったのかしらと、だから、いつまでも案じていただいてちゃダメだと思うことで色々と頑張れた。その身で担われる、責ある国事も増えてお忙しくていらっしゃるのに、セナのいる控えの間までわざわざひょこりとお越しになることもあって。御用があるなら机の呼び鈴を鳴らして下さればいいものを、そうすれば飛んでくものを、いやそれほどの事でなしと苦笑をなさり、お茶にしないかと微笑って下さる。そんな優しい殿下のことを想い、そしてそんな優しい方が遭われた苦衷、自分ではどうすることも出来ぬのかと、悲しくて悲しくて、ちょっぴり口惜しくて。涙が次から次へと溢れだし、どうにも止まらず困っていたセナへと、聞こえて来たのが先の声。

 『…え?』

 王宮内においでの方々は、下仕えの人々に至るまで言葉遣いやお行儀はきちんとなさっており、

 『何だなんだ?
  こういう神聖なとこにゃあ、下衆な魔物は出られねって思ってでもいたか?』

 あっと顔を上げて、そこにいる人を見やる。妙なことには逆立ててという、いかにも威嚇的に尖らせた金の髪に、淡灰色の切れ長な目許。鞭を思わせるようなほど、きりきりと絞った痩躯に、黒い詰襟の導師服をまとった彼こそは、いつぞやの騒動の折に助けて下さった不思議な青年導師様ではないか。妙なお芝居をしてセナへと護りの指輪を下さり、清十郎殿下が襲われたのから咒を導いて守って下さった。その折に、騒ぎを起こした兄王子は、彼が引き取ってのどこかへ静養させにと隔離するよう取り計らって下さったことになっているが、

 『あ…。』

 あの時はそんなこと信じられなくて、とっても強い咒を使ってセナたちを護って下さったという解釈をしたのだけれど。この、得体の知れない人はもしやしてと、今頃になって恐れが胸へ沸く。確か自分でも言ってはなかったか、彼は魔族の長であり、ハロウィンの晩にセナに陰を踏まれてどうのこうのとか、その仕返しに来たのだとか。そんな途方もないことを言っていて、そして。あんな…指さえ触れずにという現実離れした方法で、凶刃振りかざした兄王子様を連れ去った人。こんな事態のさなかに姿を現したということは、

 『あ、あなたがっ、あなたが何かしたのですか?』
 『ほほぉ、えらくまた単刀直入なこったな。』

 こんな事態でも馬鹿丁寧なご挨拶から踏まれるかと思ったぜと。高い高い天井間近の、ステンドグラスがはまった窓辺、桟に腰掛けていたところから、危なげなくもひょいと飛び降りてくる。肩に留めてその背中を覆っていた広々としたマントがひるがえり、その形が一瞬だけ、セナにはコウモリの翼のようにも見えた。

 『殿下が大変だそうじゃねぇか。』
 『……っ。』

 外部へは絶対に漏らさぬようにしていることだ。なのに知っていたとはやはりと、涙に溺れそうになっている琥珀の瞳をぎゅうと眇め、彼には滅多にないほどの、敵意を込めた顔をするセナで。

 『どうしてあんなことをっ!』
 『おいおい、せっかちな野郎だね。俺が何かしたって言うのかよ?』
 『だって…っ!』

 じゃあどうしてこんな、こんな間合いに現れたのか。悪さを仕掛けていたからこそ居合わせられたんじゃあないのかと、理屈はちゃんと胸の裡
(うち)にあるのに、それを順序だてて言い放つための、口がうまく回らない。自分は切り裂かれるような心持ちでいるのに、涼しいお顔でいるのさえ憎いと、うまく働かぬ口の代わり、せめてときつく睨み据えておれば、

 『何をどう勘違いしてやがるのかは知らねぇが。』

 彼はその細い肩を、いかにもこれみよがしにすくめて見せると、ニヤリと笑い、
『こうやって聖なる場所にも平気でいられるような俺様が、何をか仕掛けたとして、だ。葬式の一つも出てねぇってのは遺憾な話じゃあないかよ。ああ?』
『そ、それは…。』
 そんな妙な理屈を持ち出されても、魔界の関係者ではないセナに判ろうはずもないし、
『…っ、こうやって嘆いてるのを見るのも、あなた方には楽しいことなのでしょう?』
 人の苦衷が甘露な美酒だと、そんな存在なのではないかと切り返せば、
『だったらどうして、完遂するまで隠れたまんまでいないのかね。』
『う…。』
 そんな程度の“困った困った”くらいじゃあ、人間の厭味な野郎には心地いいかも知んねぇが、俺には全っ然物足りねぇし…と。胸を張って言い切られても、
『そ、そんなこと言われても…。』
 人の痛みも自分の痛みと等しく、その心へ受け止めてしまうようなセナには土台理解出来る筈のないことで。うにむにと口許をたわませてしまった様子に、

 『……。』

 少しほど伏し目がちになり、小さく小さく微笑った、自称“魔導師”若しくは“魔族”の蛭魔さんとやら。そのまま くくっと、今度は強かに笑って見せて、


 『まま、俺の縄張りで良からぬ陰の気が蠢いてんのは気分が悪いんでな。
  お前とは付き合いもあっから、特別におもしろい話を聞かせてやる。あのな?』


 後から思えば、先のときもこんな風じゃなかったか。魔族だ何だと言いながら、セナの助けになるようなことを取り計らってくれて。

  ―― 明日の朝一番に咲いたバラの花に宿った朝露を、
      その口許へそそいでやって飲ませれば、その邪は払えるぞ。

 何にでも効くというものじゃあないが、今の巡り合わせがそうなっている。信じられないならそれもいいが、人間という生き物は 飲み食いしないままでそうそう何日も無事ではいられないんじゃなかったか。暗に急いで手を打ちなと、そうと言ってそれから、

 『………あ。』

 瞬きする間も与えずに。あっと言う間にセナの前から姿を消した彼であり。そんな存在があったなんて幻だったかのように、荘厳なままな静謐を保った空間、壁一面を覆うステンドグラスの大きな窓から、それぞれの色に染まって斜めに差し入る陽が、唯一、金色の帯を引いた端境のその中を。ふわりゆらりと降って来たのが一枚のハンカチで。セナの涙を気遣ってくれた、それは優しい、自称・魔族さんの言ったこと、やっぱり信じて頑張って摘んだのがこのお花。春のそれだけじゃあなくて、秋のバラも丹精されてはいたけれど。陽あたりへの工夫からか随分と奥まったところにあった茂みであり。しかも、誰にも言えないことだったので、小さなセナが自分の手でと頑張った。小柄なその分、腕の尋も知れており。身を乗り出してもなかなか届かず、さりとて乱暴にむしっては露が落ちる。うんうんと腕を延ばし、手指は勿論のこと、お顔の頬までも棘に擦れての切られつつ。それでも泣かずに頑張って。

  “……。”

 特別に宿ったそれのような、きれいな玻璃玉みたいな朝露を。1つもこぼすまいと気をつけながら運んで来ての、そおっとそおっと。殿下がおいでの寝室までへと運んで来て。今はそれへと集中していたから気づかなかったが、見張りのための近衛の方も、看護についていたはずの女官の方々の姿も見えない中。朝日が威勢を強めるその前にと、小さな手が差し伸べた麗しき紅蓮のバラ。やわらかな花びらの上、透き通った露がゆるゆると転がり、傾けられた先から零れ落ちて……眠ったままな殿下の口許へ。目を覚まされないと判った朝に、冷たいタオルで頬をなでても、やはり眉ひとつ動かさなかった殿下だったのに。


  「……ん。」


 静かな、長い吐息をゆっくりとついて。口許が動き、目許が震えた。それは正しく魔法が解かれた瞬間の反応。そろりと瞼が上がって、それと合図に止まっていた時間が動き出す。殿下のだけじゃあない、セナの心の時間もだ。凍ったようになってたの、今、一気に動き出す。

 「…セナ?」
 「〜〜〜。」

 お返事しなくちゃいけないのにね。口がうまく動かないの。昨日の蛭魔さんへの時と違って、はい殿下とお返事すればいいだけなのに。口許がうにぃって横に横に押し潰されちゃって。ああ、きっと、変なお顔になってるに違いない。殿下が目を見張ってしまわれたもの。億劫そうに身を起こして、それから……あのね?


  ――― おいでって。


 両手をこっちへ、少ぉし開いて差し伸べて下さったから。ああもう、我慢も限界だと。此処まで頑張った小さな近従のセナくん、わぁんと弾けるように泣き出しながら、大好きな殿下の懐ろへ、飛び込んでしまったのでございます。

 「あの声は?」
 「どうした。…近衛の当番はどこだ?」
 「いませんか? あ、セナさまが……………殿下っ!!」

 結界を解いたその途端、あっと言う間に喧噪が沸き起こり、それが喜色に塗り替えられる。ああよかった、無事にお目覚めになられた。セナ様がお起こしに? ああ、どうされたのですか、このお手は。手当てをせねば、医師殿を…っ!


  《 元気だねぇ、朝っぱらから。》


 喜びに沸く王宮を、ずんと高みから見下ろす影があり。高さを増せばそれだけ寒さも増すのだろうに、それほどの重装備をするでもなくの、マントを背に負うた導師服姿の二人連れ。片やは昨日セナへ粋な助言をしてやった蛭魔であり。傍らに立つのは、そんな彼の供連れの桜庭で。おめでたい展開を楽しそうに見下ろす相棒の様子へ、やわらかな亜麻色の髪をした美貌の君が、ふと。

 《 何でホントのこと言ってやらなかったの?》

 そんな言いようをする。彼もまた、この国の何だかんだには関心を寄せており、助けてやる義理はないけれど、蛭魔が気に入りにしている土地や人々らしいのでと、これまでも蛭魔とともに見守って来た身。そして、だからこそ気になったことがあっての尋ねかけてみたのであって、

 《 ああ? 何で言わにゃあならんのだ。》
 《 だって…。》

 確かに、こたびの騒動に あの兄王子も関わっちゃあいる。だがそれは、

 《 得体の知れない邪の気配が国へと忍び寄っているらしいから、
   それを防いじゃくれないかって、彼はそうと言い出したんじゃないか。》
 《 おうさ。
   此処で顔役らしい俺らが、なのにそんなことも出来ねぇようなら、
   魔界たって大したこたぁねぇ。
   俺ほどの器のもんを置いとく世界じゃねぇなんて言い出しやがってよ。》

 忌ま忌ましいと言いたげな口調だが、そんな物言いをする蛭魔へこそ、桜庭は駄々っ子を見るような顔をした。言葉づらだけの意味以上の含みがあったのを、この彼が気づかぬはずがないからで。
《 自分は此処へ戻る訳には行かないって自覚してるんだね。いろいろな意味で騒動を起こす火種にしかなり得ない。それでも気になって、だから何とかしてくれって言い出したんだろにさ。》
 あのままじゃあ、城内のどのくらいかの人々には、やっぱり兄王子の呪いか何かかもって印象は拭えない。そのままでも良いのかと暗に訊けば、

  《 いいんだよ。》

 ふんと、蛭魔は鼻先で笑って一蹴する。
《 あいつがあんな回りくどい、悪ぶった言いようをしたのだって、酌んでやらにゃあ不公平だろが。》
《 ………おや。》
 今更感謝なんかされたかないし、けったくそ悪いのは収まらぬ。それと…そんな善行を思いつくよな素直な人性だったなら、魔界にもそぐわぬ者とされちまう。

 《 ならば、恨まれる方向で、
   魔物のような存在として語り継いでくれた方が増しだと?》
 《 さてな。》

 俺は本人じゃねぇから判らねえ。そんな言いようをした蛭魔だったが、

 “で、そんな相手に使われてやったわけなんだ。”

  ―― 俺以外の何物かに奴らの命を脅かさせてはならん。
       それが、此処にい続けてやることへの条件だ。

 そんなことをば言って聞かなんだ、いちいち素直じゃない兄上と。もしかして波長が合ったのかもねなんて。口には出さねど、きっちりと彼の意を酌む心遣いをしてやったらしい相棒さんへ。愛おしむような眼差しを向けたれば。

 《 さぁってと。そんじゃあ、南のほうの内乱地域へ飛ぶか。》
 《 うん。昨日あたりからとうとう、
   私腹肥やしてた層の屋敷への焼き打ちが始まってるっていうからね。》

 怨嗟にまみれた魂がごっそり飛び交ってる頃合いだと思う、と。だからそんな物騒なことをはきはきと話題にしないでほしい、あくまでも魔族のお二人が飛んでった空もまた、秋の高さに透けて、ただただ青い……。




  〜Fine〜  08.10.30.〜11.04.


  *あああ、なんか日がかかってしまった割に、
   落ち着かない書きようになってしまっててすいません。
   ぶっつけで書き始めた代物なんで、
   途中であっち行ったりこっち行ったり、
   はたまた、削ったり消したりし過ぎたらしいです。
   今回は進さんがほとんど出番なしでしたが、
   日頃はどんだけセナくんを猫かわいがりしている殿下なんだかvv
   今はまた別な理由から、
   忙しいばかりな殿下なんてつまらないと思っておいでかも知れませんね。
(笑)


ご感想はこちらへvv**

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